『愛で人を殺せるなら、憎しみで人を救えもするだろう』





アルテナ「愛で人を殺せるなら、憎しみで人を救えもするでしょう。わたしはそう信じています」
黒キリカ「…はい」

はい、私もそう信じています。
いえ、信じている、と言うことさえすでにあやふやな表現なのかもしれません。
愛で人を殺せるなら、憎しみで人を救えもするだろうという事を、知っています。



この言葉は、他への説得や、理解させたりする方向性を持つ言葉ではありません。
この言葉を聞いて、
ああそうだ、そのとおりだ、と思ったり、
ああそうだろうなあ、多分そうだろう、と思ったり、
もしかしたらそうなのかもしれない、と思ったり、
何かわからないがひっかかる、と思ったり、
そうなのかどうかはわからないが何か不思議な響きを持っている、と思ったり、
と、何らかの形で共感できる人たちにのみ向けられた言葉です。
この言葉はわかる人にのみ向けられた言葉です。

そしてこの言葉は気分感情声でもあります。アルテナの鼓動、吐息と言ってもいいでしょう。
とても感覚的な言葉でもあります。

この言葉を、「ああそうだ」と「すっ」と素で感じるのは、ある種の人間、生まれついての「ある種類」の人間だけです。
そしてそういう人間はとても少ない。
世界の本質、人間の本質を認識できる、認識しようとする事のできる人間はとても少ない。
それは……もしかしたら身の内の闇、身の内の邪悪を知っている人間なのかもしれません。
申し添えておくと、これは優れているとか劣っているとかではありません。
種類、という表現を使っている事からもわかるように、赤や青などといった種類の話です。

このこの言葉がいかなる作用も及ぼさない、いわばこの言葉を受容する受容器官を持っていない、
そしてこの言葉を「これは間違ってる」と即断できる人に生まれなかった事はとても悲しい事かもしれませんね。
世界の中でただ一人真実を知っている者は孤独で不幸なのかもしれません……アルテナのように。
本編でアルテナがこの言葉を他人に向けて言う時は、第24話「暗黒回帰」で黒キリカに言う時だけです。
黒キリカの他にも、まず間違いなくクロエにも言っているでしょう。ボルヌ、マレンヌにも。
彼女たちにならわかるだろう、なぜなら彼女たちは本質的に自分と同じ種の人間だから。
そしてクロエも、黒キリカも、その言葉を「ああ、そうだ」と素で感じたのでしょう。
アルテナはそうでない人たちと分かり合うことはしないし、またそんな事はそもそも不可能であることを知ってるのです。
人間にはどうにも乗り越えがたい「種類」というものがあり、異種間で真に分かり合うことは不可能です。
だからこそアルテナは、「あなたの安住の地はここにしかありません」と黒キリカに言うのでしょう。
この言葉は「語りかける」言葉ではない、というのは「異種族に語りかける言葉ではない」という意味もあるのです。
アルテナがこの言葉を認識できるのは、確かにアルテナの経験からですが、それだけではありません。
もともとそう認識できる可能性を持った人間だからこそ、アルテナは自らの経験をきっかけとして、その真実に辿り着く事ができたのです。
そして、クロエも黒キリカも、戦闘能力のみならず、そういう認識の可能性をもった、アルテナと同じ属性の人間だったからこそ、
ノワールの苗木として選抜されたのでしょう。
実はミレイユはそういう「種類」という意味ではクロエと黒キリカとは異なり、その意味ではノワールたりえないのですが、
ミレイユに関してはまた今度。



この言葉がアルテナのオリジナルなのか、原初ソルダの人の言葉なのかはわからないところですね。
私はおそらく原初ソルダの原本に記されてあった言葉ではないかと推測しています。
アルテナとこの言葉の関係については、二つの可能性があると思っています。
1:アルテナは原初ソルダの話の中で初めてこの言葉を知り、天啓だと思った。
2:アルテナは荒野をさまよってのち、自分の中で独自にその言葉にたどり着いた。そしてのちにソルダに入ってから、
  原初ソルダの話の中で自分が思っていたその言葉がほぼそのまま記されているのを見つけ、愕然、驚愕とすると共に得心した。
2の方がよりドラマチックではありますね(笑 
ですが、案外2の方なのではないかと思っています。
私たちもたまに経験しませんか?
自分が独自に考えたと思っている思想が、自分が生まれるよりもずっと前に発行された本に記されているのを見つけたとき、
ちょっとがっかりしたり、逆に空恐ろしくなったり、でもなぜか嬉しかったり。普遍性のある思想というものは大抵そうですね。

アルテナは、この言葉の「愛」「人」「殺す」「憎しみ」「人」「救う」という意味をどういう意味で使っているのでしょうか?
それはアルテナが自分で感じ、経験した事のある「愛」であり「憎しみ」、「殺す」であり「救う」であり、「人」なのでしょうね。
だから本来この言葉はアルテナにしか意味はないとも言えます。
そしてアルテナにおいてはこの言葉はどこまでいっても正しい。



本編ではオデット・ブーケが、「愛が人を殺すことはあるかもしれない、でも憎しみが人を救うことは決してない」と言っています。
オデットが今まで感じたことのある、「愛」や「憎しみ」の意味でもって言えば、オデットについてはそうなのでしょう。
ですが、これもまたオデットにおいてだけの正しさであり、実は、アルテナのあの言葉に対する正確な意味での「アンチ・テーゼ」ではありません。
アルテナとオデットが、全ての語句を全く同じ意味に使っているときにのみ、オデットの言葉はアンチ・テーゼたりえます。
(アンチ・テーゼと言うのは、「反対の命題」です。
例えば、命題A「1+2イコール3」に対し、反対の命題Bは「1+2ノットイコール3」です。
1、2、3を十進数表記でのそのままの数1、2、3、イコール、ノットイコール、を数量比較の意味で使うならば、この場合Aは真でありBは偽ですね)
アルテナが経験した事のある愛と憎しみ、人を殺す、人を救うということ。
オデットが経験したことのある愛と憎しみ、人を殺す、人を救うということ。
これらはすべて全く違います。共通点はどこにもないと言っていいでしょう。
ですから、オデットの言葉はアルテナの言葉の反対意見たりえておらず、アルテナの言葉の真実を揺るがすものでは全くありません。

ところが、オデットは、明らかに自分の言葉「自分の言葉は、アルテナの言葉を否定するものだ」という姿勢で使っています。
これは「わかりもしないものをわかったと勘違いしている」ことです。
また、このオデットの言葉と姿勢は、オデットがアルテナたちとは全く異なる種類の人間であり、
アルテナの言葉を知っていたからオデットは実はアルテナたちのかつての同志だった…という可能性を完全に否定してしまっています。
アルテナたちとは異なる種の人間は、アルテナの言葉をよしとすることは、実は初めから最後までありませんから。

そしてもしも、オデットのその言葉をアルテナが知っていたとしたら…
アルテナが、ソルダに逆らう者の抹殺と、ノワールの苗木の試練という意味の他に、あのコルシカの暗殺、
ローラン・ブーケとオデット・ブーケ、そして幼い息子を幼子に殺させるという事に何か意味を持たせているとしたら、
それは、「わかりもしないのに自分の思想をわかったと勘違いしてさらに否定する、愚かで憎むべき外敵」として、
オデットを完全に否定し、この世から抹殺し、コルシカを真っ平らにしようという事だったのかもしれません。
幼い黒キリカに銃を渡したときの、若きアルテナがとっても嬉しそうだったのはそういう意味もあったのではないでしょうか?

余談ですが、第25話「業火の淵」で白霧香がオデットの言葉を繰り返していますが、
あれは黒キリカの苦悩を完全に「無かったこと」にしているものであり、それは「白霧香の経験した感情」が黒キリカの経験した感情とは
全く異なっている事を示しています。それは「白霧香と黒キリカは本質の異なる別の種類の人間だ」という事です。
白霧香と黒キリカを無理に融合させるよりもむしろ私のサイトのトンデモ設定「二人は別の肉体を持った別人」の方が、
実は的を得ていて自然だと思っております。



世界は暗黒に閉ざされ、業苦に満ちています。
地上は常に、邪悪と絶望に満ちています。
それが人の真の姿です。
愛で人を殺せるなら、憎しみで人を救えもするでしょう。


徒然文に戻る

NOIRのコーナーに戻る  

トップに戻る