『奇蹟』




アルテナはなぜノワールを求めていたのか?という事についてお話したいと思います。
業苦に満ちたこの世界に純粋なる至高の刃をもたらす事。
もちろんそれが目的です。
しかし、それはアルテナ個人にとってはどういう意味を持つのか。

愛で人を殺せるのなら、憎しみで人を救えもするだろう。
世界は業苦に満ちている。
だが、ノワールは闇にありて、嘆きの子らを護り……戦う。


やはりアルテナはノワールを自分の外部に置き、ノワールに自分を護ってほしかったのだと思います。


かつてはアルテナ自身も嘆きの子だった。
住んでいた村を破壊され、家族を殺され、自分自身をも傷つけられかけ、
荒野を何日も何日もさまよい……そして大切にしていた女の子の人形を取り落とし、そしてまた荒野を歩き続けていく。
可愛らしい女の子の人形を抱える幼児性をまだ持っていた、ただの甘えっ子の少女であったアルテナにとって、
アルテナ達を襲った暴力はあまりにも圧倒的であり破壊的です。

力を巡る醜悪な陰謀、大勢の人が殺されました。老人も、幼子も。
人が人に対して為しえる最悪の暴虐、人々はその極限を目の当たりにしました。
何人かがその地獄を生き延びました。
彼らは悟りました、人の世の本質を。
地上は常に、邪悪と絶望に満ちているのだと。
生き残った人々は誓い合いました。
この世界に復讐する。弱き者、虐げられた者を助け、地上に正義を実現しよう。


アルテナはまさに千年前の人々が辿ったのと同じ道を奇しくも辿ったのだと思います。


「西部戦線異常なし」(著:レマルク)という小説があります。
第一次世界大戦時、ドイツの学生(十八歳)であった主人公達は志願して兵士として西部戦線に赴き、凄絶な塹壕戦を体験します。
その中でこういう話があります。
数年間塹壕戦を経験して戦争慣れしてきた主人公達は、戦争が終わった後の将来に不安を抱きます。
同じ部隊には主人公達よりもずっと年長の、故郷に帰れば定職があり妻子も居て、という人達もいます。
彼らは今は戦争に駆り出されていますが、戦争が終わればそれぞれの帰るべき場所に帰れます。
戦争は彼らにとっては、既に確立されている生活のただの一時的な中断を意味しています。
彼らの世界観、世界における自分の位置も態度も既に確立されており、
今の戦争は確かにとても過酷ではありますが、既に出来上がっているその世界観を吹っ飛ばすほどのものではない。
しかし、学生生活からそのまま戦線に出てきた主人公達はどうか。
それまで彼らが生きていた世界、両親と兄弟姉妹の家族世界と、少々の趣味と空想の世界と、学校。
そしてまだ未知のもの、女の子や将来の職業に対して漠然と望んでいた淡い夢。
彼らにおいてはまだ何物も確固たるものにはなっていませんでした。
そこで戦争が来て全てを吹飛ばしてしまった。
彼らは急に荒涼たる世界に投げ出され、途方にくれてしまう。
小説のそのあたりの文章を引用させて頂きます。
(引用:新潮文庫「西部戦線異常なし」著:レマルク、訳:秦豊吉、出版:新潮社)
ちょっと長いです。


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僕達が戦争に出て以来というものは、昔の生活とはまるでぶち切られてしまっている。
僕らがなにもぶち切ろうとしたんでもなんでもないのだ。
僕らは何度も昔の生活を一目見渡してみようとし、またそれに対する説明を得ようとしたが、どうも上手く行かない。
特に僕らのような二十歳の者にとっては、あらゆるものがぼんやりしている。
クロップにしても、ミュッレルにしても、レエルにしても、あるいは僕自身にしても。
カントレックが鉄青年と名づけた僕達は、みんなそうなのである。
もっと年をとった連中は、誰も今までの生活と固く結びついているのだ。
こういう人達はそれだけの基礎を持っている。
細君がある。子供がある。職業がある。いろいろの利害がある。
こういうものがなかなか強くって、戦争くらいでは破壊されやしないのである。
けれども僕達二十の者にとってみると、持っているものは僕の両親だけで、まあ中には愛してる少女を持っているものもある。
けれどもこれは決して大したものではない。……僕らぐらいの年になると、両親の力はもっとも微弱である。
また女といったところで、これに全身を奪われるというところまではきていない。
そこでそういうもの以外には、僕らにとって別に何も大したものはないのである。
多少の空想と、少しばかりの趣味と、それから学校である。
僕達の生活は、それ以上にはまだなにも発展していなかった。
しかも今はそのうちから何も残っていなかった。

カントレックの口調を借りて言えば、僕らはちょうど人生の閾のところに立っている、というべきところだったかもしれない。
まったくそんなふうにも思われる。
僕達はまだ生活の中に根を下ろしてはいなかった。
そこへ戦争がやって来て、僕らを一掃してしまったのである。
ほかのもっと年をとった連中にとっては、戦争は生活の一つの中断を意味していて、
したがって戦争を越えて、彼方の方まで考える事ができるのである。
ところが僕らにしてみると、いわば戦争という病気に罹ってしまっているので、どういう最後になるのやら、まるでわからない。
差し当たり分かっているのは、僕らがある特異な憂鬱な手段によって、荒涼たる人間になってしまっている事だけだ。
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僕らはもう青年ではなくなった。世界を席巻しようという意思は無くなった。
僕らは世界から逃避しようとしている。僕らは自分の前から逃避しているのだ。僕らの生活の前からだ。
僕らは十八歳であった。
この世界と生活を愛し始めていた。

しかるに僕らはその世界と生活とに向かって鉄砲を射たねばならなかった。
その第一発として射ち込んだ爆弾は、実は僕らの心臓に当たっていたのだ。
僕らは仕事と努力と進歩というものから、まったく遮断されてしまった。
僕らはもうそんなものは信じていない。信じられるのは、ただ戦争あるのみだ。
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しかもこれは僅かただ一つの病院であり、ただ一ヶ所に過ぎないのである……
こういう顔は、ドイツに幾十万とあり、フランスに幾十万とあり、ロシアに幾十万とあるのだ。
今の世の中にこれほどのことがありうるものとすれば、一切の紙に書かれたとこ、行なわれたこと、考えられたことは、すべて無意味だ。
この世の中にこれだけの血の流れがほとばしり、幾十万の人間のために苦悩の牢獄が存在することを、
過去千年の文化といえども遂にこれを防ぐことができなかったとすれば、この世のすべては嘘であり、無価値であると言わなければならない。
野戦病院の示すものこそ、まさに戦争そのものにほかならない。

僕はまだ若い。二十歳の青年だ。

けれどもこの人生から知りえたものは、絶望と死の不安ち、深遠のごとき苦しみと、まったく無意味な浅薄粗笨とが結びついたものとにすぎない。

国民が互いに向き合わされ、追い立てられ、何事も言わず、何事も知らず、愚鈍で、従順で、罪なくして殺し合うのを、僕は見てきた。
この世の中のもっとも利口な頭が、武器と言葉とを発見して、戦争というものを、いよいよ巧妙に、いよいよ長く継続させようとするのを、僕は見てきた。
このあらゆるものを、僕と同じ年齢の人間は、僕とともに、こことかしこで見てきたのである。
この全世界において、僕と同じ時代の者が、僕とともに体験したのである。
もし僕らが今日僕らの父の前に立って、その前に進み出て、この弁明を求めたとしたら、父達ははたしてなんと言うであろう。
もし一朝、戦争終了の時が来たとしたらば、父達は僕らから何を期待するであろう。
幾年のあいだ僕らのする仕事は、人を殺すことであった……人を殺すということが僕らの生活における最初の職務であった。
僕らがこの人生から知りえたことは、死ということに限られていた。
そもそも今後どういうことが起こるであろう。しかも僕らは一体どうなるであろう。
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もし僕らが一九一六年(十八歳時)に家へ帰っていたら、僕らの経験した苦痛と強さから、あの暴風のような力を解放しえたかもしれない。
けれども今(二十歳時)帰るとすれば、僕らはまったく疲労し、崩壊し、焼き尽くされ、しっかりとした足許さえ失い、なんの希望もなくなってしまっている。
僕らははたして何をなすべきか、まったく空漠な行く手を眺めるばかりであろう。

人はおそらく僕らのこの心持をわかってくれないであろう……
僕らの前の時代の人達は、同じく僕らと一緒に、この戦線で幾年かを過ごしているけれども、

その人達は寝床と職業を持っている。今はただ昔の位置に帰ってゆけばいいのである。
その位置につけば、また戦争なんてものも忘れてしまうであろう。
……僕らの後には、また新しい時代の人達がいる。
それは昔の僕らと同じような人達だ。
それは僕らにとってまったく何の関係もなく、僕らを傍らへ押し除けて進む人達である。
僕らは僕ら自身というものに対してすら、まるで余計な人間になってしまっている。
僕らはこれからいよいよ成長するであろう。ある者はうまく順応してゆくであろう。 ある者はたくみに身を処してゆくであろう。
けれども多くの者は、まったく途方にくれるよりほかはない……その間に年月は消えてゆき、僕らは結局滅びてしまうほかはないのである。

あるいはこうした僕の考え方も、すべてある憂鬱と狼狽にすぎないのかもしれない。

もし再びポプラの樹の下に佇み、あの葉のそよぎに耳を澄ます時は、ほこりのように飛んでいってしまうものかもしれない。
けれども僕らの心を離れることのできないものは、僕らの若き血を不安ならしめる、あの手応えのない頼りなさである。
あてにすることのできない不確かさである。僕らを狼狽させるものである。 やがて来るべきものである。
未来にあらわれてくる幾千の幻である。
夢と書物とメロディである。女からくる陶酔と予想である。
それらのものが、あの猛射と絶望と兵隊女郎部屋の中に消えてしまったとは、考えられない。
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戦争体験によって失われるものは物理的なもののみならず、
人間の、特にまだ世界に根を下ろしていない若者の世界観でもある事を教えてくれます。

「僕達の生活は、それ以上にはまだなにも発展していなかった。
 しかも今はそのうちから何も残っていなかった」

「僕らは十八歳であった。
 この世界と生活を愛し始めていた。

 しかるに僕らはその世界と生活とに向かって鉄砲を射たねばならなかった。
 その第一発として射ち込んだ爆弾は、実は僕らの心臓に当たっていたのだ」

「僕らがこの人生から知りえたことは、死ということに限られていた」

「けれども多くの者は、まったく途方にくれるよりほかはない……その間に年月は消えてゆき、僕らは結局滅びてしまうほかはないのである」


極限の体験とその持続によって、
それまで生きていた世界と、その世界に生きている時に持っていた世界存在感とでもいうべきものを破壊され、
そしてその後に世界に根を下ろせず、ただただ疲れきって途方にくれてしまう。
それはそのような体験をした人達の共通の運命なのかもしれません。



アルテナにおいて言えば、
アルテナにとって決定的だったのは、破壊的な因子が、幾重にも重なって起こった事だと思います。
住んでいた村を破壊された事。家族を皆殺しにされた事。
自分自身をも傷つけられかけた事。
そして自分を襲おうという兵士を自分の手で殺した事。
そして荒野をたった一人で彷徨った事。
その彷徨った期間が数日間なのか数週間なのか数ヶ月かあるいは数年なのかは分かりません。
でも、その期間の中でアルテナの中で色々なものが破壊され、取捨選択され、沈殿されていったのではないでしょうか。

確かに少女アルテナを襲った暴力の一つ一つも、十分に破壊的ではあったと思います。
でも、せめてそれが重なって起こらずにそのどれかだけであったら……と思ってしまいます。
もしも、戦火がアルテナが成人した後の事であったら……
もしも、村を破壊されて廃墟で一人茫然としている時に差し伸べられたのが暖かい保護の手であったのなら……
もしも、兵士が自分を傷つけようという時に誰か他の人が間一髪で助けに来てくれたのなら……
もしも、たとえひどい事があったにせよ、その直後に誰かに保護され、手厚い介護を受けていたのなら……
もしそうであったら、あるいは、少女アルテナがそれまで持っていた世界存在感も破壊され尽くされはしなかったかもしれない。
女の子の人形を取り落とす事もなかったかもしれない。
たとえ手痛い衝撃を受けたにしても、その芽がわずかにでも残っていれば、またそこから成長して、
あるいは世界に希望と幻を持つ、普通の人間になっていったかもしれない。

でも、奇蹟は起こらなかった。

私が何よりも嫌なのは、あの廃屋の場面で、既に絶望しているのに、既に虚ろな目をしているのに、
その無力な少女に、さらに暴力が加えられようとしていた事です。

荒野を一人彷徨ったあの期間に、少女アルテナの絶望は、確定のものとしてアルテナの中に固定してしまったのだと思います。

そして荒野を抜け出したのちも、今まで持っていた世界存在感を全て失ってしまった少女アルテナは、
どんな価値観も、生き甲斐もなく、途方にくれた時期を過ごしたのだと思います。

そのような少女アルテナがどのようにしてノワール復活の為に邁進する慈母アルテナになったのか。
その前にも、どのようにして強い目的と意志を持って生きるようになったのか。
その経緯は謎のままです。
しかし、絶望し疲れ果てた心からそのように目的を持って生きる心に至るには、
計り知れない苦しみや迷いの道程があったと思います。

その頃のアルテナにとって、
「愛で人を殺せるのなら、憎しみで人を救えもするだろう」という言葉は、
大きな力でもあり希望でもあったのだと思います。
ソルダの思想。ノワールの思想。それらに触れて初めて、
アルテナはやっと再び世界における拠り所を得たのかもしれません。



かつてアルテナ自身も嘆きの子だった。
そんなアルテナを他の誰も助けてはくれなかった。
でも、アルテナは助けてほしかったのだと思います。
都合のよいフィクションでは、間一髪という所で必ず謎のヒーローが助けに来てくれる。
でもアルテナは「そんな都合よくは誰も助けてはくれない」という非情の現実を知っている。
しかし、そんなアルテナこそ、「謎のヒーロー」のごとき存在を誰よりも望んでいるのだという気がしてなりません。

世界は業苦に満ちている。
だがノワールは闇にありて、嘆きの子らを護り……戦う。


ノワールこそ、闇にあって嘆きの子ら……世界中に居るであろう嘆きの子ら……それはかつての自分をも含む……を護り、戦う存在。
確かに物理的に考えれば、世界中に散らばるそのような子供達を、たった二人のノワールが護るなどという事は出来ません。
ノワールがこの現代の世界に復活したとしても、それで世界が急に変わるという事はないでしょう。
しかし、ノワールという存在がこの世界に存在するという事は、一つの希望の象徴なのだと思います。
確かに今ここにいる一人の子供を救うことは出来ないかもしれない。かつての少女アルテナもその場では救われなかった。
しかし、この世界にノワールがいれば、闇にありて嘆きの子らを護るノワールがいると思う事ができれば、
それは業苦に満ちたこの世界において持つ事が出来る数少ない希望の一つになるのではないでしょうか。
誰も助けてくれないのじゃない。闇にはノワールがいる。ノワールは弱い者虐げられし者をきっと助けてくれる。
いわばそれは「夜泣くと鬼が来てさらっていってしまうよ」というのと同じような(意味は逆ですが)、一種の伝説効果のようなものだと思います。

昔のノワールの描写には、「その勇猛は幾万の騎士にもまさり、聖母の慈愛と死神の冷酷を併せ持つ」というのがあります。
これは文字通りの意味の他に「ノワールってこんなに強いんだぞ!」という、誇張宣伝がある気がします。
幾万の騎士にもまさる勇猛さ。聖母。死神。ノワールは神格化しています。
その黒き手のノワールが嘆きの子らを護り、嬰児の安らかなるを護る。
原初ソルダの理想が「社会の裏に隠れ住みつつも弱き者虐げられし者を助けこの世界に正義を実現しよう」というものですから、
ノワールはまさにその秘密組織の理想の具現化した存在と言えます。

アルテナはそのようなノワールを渇望していた。
もしも嘆きの子らを護ってくれるであろうノワールがこの世界に復活すれば、
たとえかつての自分は護られずとも、
今と、今後の世界においてノワールという希望があれば、
かつての自分も、今の自分も救われる。
アルテナはそういう風に考えていたように思います。
アルテナ個人にとっては、ノワール復活はそのような意味もあったのだと思います。
だからこそ、アルテナはノワールをあれほど強く求めていたのではないでしょうか。



「ココロ図書館」というアニメがあります。
ココロ図書館は、とっても都合のいい奇蹟で溢れ返っているアニメです。
十歳の少女がヒッチハイクをすれば、バイクにのったあやしいお兄さんが便乗させてくれる。
どんな利用者も借りた本は必ず返してくれる。
本を盗みに来た怪盗は実はいい人である。
列車に乗れば同席した人がお菓子をご馳走してくれる。
司書研修試験では試験官が甘々な判断をしてくれる。
ひかりちゃんの病気のお母さんの手術は夜空に叫びながらお祈りするとなぜか成功する。
戦争の時に町にやってきた敵の戦車隊は直前で橋を爆破されて、砲火を交えずに撤退する事を決断してくれる。
……などなど、ここまで都合よくいくものかという風にお話が運びます。
しかし、それにはちゃんと意味があると思っています。
「ココロ図書館」は全てがなんだかんだと上手くいくお話です。
確かに「現実はそんなに甘くないんだよ」とも言えますが、
「全てがなんだかんだと上手く行く気持ちのよいお話」があるからこそ、そうでないお話もあるわけで、
そういう上手く行くお話、望む時にちゃんと奇蹟が起こってくれるお話も、必要だと思うし、価値もあると思います。

そしてアルテナももしココロ図書館を観たとしたら、「そんなに現実は甘くないのですよ」と思うと共に、
「そのような安易な奇蹟……ピンチの時には謎のヒーローが駆けつけてくれる」を、
自分もまた心のどこかでは望んでいると思うのではないでしょうか。




最近思うようになったのですが、第26話の「誕生」の題名は、
もしかしたら「クロエとアルテナ、もしくはキリカがノワールになった」という意味ではないかという気がします。
上記したようにノワールは物理的に世界を救うという意味だけではなく、多分に精神的な意味があると思います。
第26話の予告で「二人は冥府にありて……見守らん」というような文が流れますが、
それは、「冥府にてクロエとアルテナ、もしくはキリカがノワールとして嘆きの子らを護り続ける」という意味ではないでしょうか。
クロエも、アルテナも、キリカも、嘆きの子らを護り、戦う事の出来る人です。三人はまたそれを望む事が出来る人でもあります。
ノワールが象徴的な意味を持っているという事からすれば、
クロエとアルテナとキリカの霊は、世界を、嘆きの子らを護るノワールになったという風に捉える事が出来るとも思います。

もちろんこの解釈は「ミレイユと白霧香では、原初ソルダの、アルテナの望むノワールには成り得ない」という事に依っています。
「誕生」したのが「ノワール」でかつ「ミレイユと白霧香ではない」とすると……という事です。
無論第25話と第26話の脚本は完全にそれまでの流れから破綻していますから、
そのタイトルの解釈をひねってもあまり意味はないのですが。


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