『刺客逃避行』




いつもと変わらぬ務め。
真のノワールの手に掛かればどうと言うことのない事のない仕事のはずだった。
思わぬ反撃を受けてキリカが負傷さえしなければ……
 

クロエは傷を負ったキリカを庇いながらここまで連れてきた。
ひとまずキリカを木の影に凭れ掛けさせてから周囲をうかがう。
すると背後から休んでいるはずのキリカの声がクロエの耳に届く、
その声はいつも聞いているキリカの声とは思えなかった。
「……うぅ……クロエ……」
何事かとクロエが振り返るとキリカが涙で顔を濡らしていた。
「どうしたのですかキリカ!」
信じられない光景に驚いたクロエがキリカに駆け寄る。
「大丈夫ですか、どこか痛むのですか」
キリカの頬に手を当ててクロエは尋ねた。
泣き続けていたキリカが小さな声で何かを話し始めた。
「あなたたちだけだ……」
「え……」
何を言ったのかとクロエは聞き返す。
クロエの疑問に答えるようにキリカは話し続ける。
「……私に触れてくれるのも……笑いかけてくれるのも……」
「キリカ……」
そこにいるのはノワールとして名を馳せた闇の処女ではなかった。
寂しさに震える一人の少女がそこにいた。
今まで見たことのないキリカの姿に何と声を掛けたらいいのかクロエは迷った。
クロエはキリカを抱きしめた。寂しさが少しでも和らぐように。
「こんなに寂しくない気持ちになったのも……」
抱きしめられたキリカがクロエも耳元で呟いた。
「キリカ……」
クロエは一層強くキリカを抱く。
「抱きしめてくれるのも」
比類なき暗殺術を持つキリカを誰もが恐れ崇めていた。そんな中でクロエは唯一自分に笑顔で接してくれた。
「これからも……そばにいて……クロエ……」
キリカの心からの願い。



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この子には他に頼る者はいない……私が守らなくては……もうこの子を誰にも傷つけさせない。

クロエは心に硬く誓った。
「ずっとそばにいますよ……キリカ」
クロエは優しげな表情で浮かべ、キリカの髪を撫でなてあげた。
キリカはクロエに抱きついて涙をとめどなく溢れさせる。
「ありがとう……クロエ」
先程までの哀しさから流れ出していたキリカの涙は歓びの証へと変わっていった。

もっとキリカを抱いていたかったが今はここから逃れることを優先しなくてはいけない。
「傷を見せてください。早く手当てをしないといけません」
行動に出る前にまずキリカの容態を確めなくてはいけない。
キリカの傷口を丹念に調べてみたが思ったより浅い。これならキリカをつれて脱出する事も可能だ。
クロエは消毒の代わりに傷口を舐めて血をぬぐった。
キリカの傷の手当てが終えたクロエは早速現状の打開に向けて動き始める。
「行きますよキリカ」
クロエは片手で剣を持ち、もう一方の手でキリカを抱きかかえた。
「あっ!」
思いがけないクロエの行為にキリカは小さな声を上げた。
「わ、わたしは一人で歩けるよ……傷も浅かったし……」
キリカの技量ならめったに敵の手に掛かることも無い。
たまたま負傷を負った為に気弱になっていたが本来ならまだ戦う事は出来る。
「ダメです、あなたはわたしが守ります」
既にクロエにとってキリカは守るべき者になっていた。
控えめな抗議に耳を傾けることなくクロエはキリカを抱えて走り出す。
黒き処女たちに殺意の刃を持って迫った者達は少女を抱えて剣を振るう処女の姿が最後の光景になった。



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追っ手の振り切り二人は名も知れぬ森の中を歩いていた。
いや、歩いているのは一人だけ……キリカはクロエに抱きかかえられたままであった。
「ちょっ……ちょっとクロエ……」
「なんですか」
「もう大丈夫だから」
いつまでもクロエに負担をかけるわけにはいかない、霧香はそう思った。
「……わかりました」
クロエはとりあえず霧香の言うと通りにすることにした。
ただし霧香が少しでも辛そうな様子を見せたら今度は有無を言わずにキリカを抱えて歩くつもりだった。
丁重に霧香を地面に降ろす。
クロエは注意深く霧香を観察した。ふらついてもいないし、しっかりと自分の足で立てるようだ。
安心したクロエは深く安堵の息をついた。
落ち着いて呼吸をすると空気がかなり水気を含んでいることにクロエは気づいた。
「近くに水があります」
「そういえば……」
「こっちです」
さほど遠くない場所に清浄な水が湧く泉を見つけた。
泉の岸まで来てお互いの格好を見合う。
「すこし汚れてしまいましたね」
「そうだね」
戦いのさなかにあって清潔さ等にかまっている暇など無かった為、二人とも随分と汚れている。
特に霧香は負傷した時の血が黒く服にこびりついている。
「追っ手の心配もなさそうなのでここで体を清めましょう」
「うん」
体を清める事にした二人は服を脱ぎ白い肌を外気に晒してそろそろと泉へ入る。

ぱしゃっ!

水の弾く音が静かな森に響く。
霧香の周りで水滴が光を反射して煌めいている。
クロエは岸辺に座って水を浴びている霧香の肢体を眺めている。
「あなたはとても綺麗……」
「綺麗……か、そんな風に言ってくれるのはクロエだけかな……
 私の姿を見る者達の目に宿るのは、恐れと崇拝だけだった」
キリカは背を向けてつぶやくように言う。

誰が何を言おうともあなたは私にとってかけがえのない大切な人。

クロエは泉に足を踏み入れキリカを背中から抱きしめた。
「私たちは真のノワール、魂の絆で結ばれ、共に闇の中で生きることを誓い合った二人」
荘園の泉でのノワールの誓いを霧香に聞かせる。
「クロエ……」
「私は絶対にあなたを一人にはしません」
「うん……」
クロエの言葉は何よりも温かくキリカを包み込んでくれた。

私は一人じゃない……私にはクロエがいるから寂しくなんかない。

背中にクロエを感じて自分が孤独ではないと知った霧香の頬に涙が伝う。
クロエは自らの腕の中で涙するキリカを優しく抱き続けていた。



6




汚れを洗い流した二人は森の中に細い道をみつけて出口へと向かって歩き続ける。 
やがて木々の間から差し込む光の森の中とは違った遮られる事のない明るさが目にはいる。
草と木がだんだんとまばらになり、少しずつ明るさが強くなってきた。
「もうすこしで森がおわります」
「うん」
森を出たその瞬間、ふわぁと二人の前に緑の草原が広がっていた。
「わあ……」
キリカとクロエはため息混じり感嘆の声を上げる。

荘園に似た美しい景色に二人は母親の様に思っている女性の笑顔を想い浮かべた。
キリカとクロエは見つめあい手を差し出してきゅっとつないで微笑みを交わす。
そして空を見上げ二人は声高らかに宣言する。

「さあ、帰ろう、アルテナの待つ荘園へ」

大切な母の待つ荘園へ向かい歩き出す二人の背を爽やかな風が後押ししていた。


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